細川流開祖は、江戸の世、嘉永年間に当時の大学者頼山陽先生の門人、細川吟右衛門氏より始まったと伝えられている。この方は代々加賀前田公の礼儀指南役を勤めた家柄にて、三斎流を極めておられた。吟右衛門氏は廣潮斎珠甫と号し、町道場を開かれ、当時の民衆にも広く茶華道を指南された。
その後、弟子の一人で、京都で代々呉服を商う岸家に受け継がれた。そして幕末のころ、岸家四代目与兵衛氏が世上稀に見る数奇者で、茶祖三斎公の精神に則りながらも当時激変する新しい時代の生活に即應した茶道について日夜研究を続けられ、格式高い武家点前の中にも新時代の民衆が要求する茶道を目指して精進を続けられ、遂に新しい体系を持った茶道を編まれるに至った。又、華道においてもそのお住まいの場所(四条室町)の関係から、祇園の祭礼等の関りも深く、華道展など催された。
このことを起こりとして慶応二年在京宮家の御知遇を受け茶器・茶杓を賜り、その後明治に入って岸家六代目岸弥三郎氏の時に、小松宮彰仁親王殿下より流名に冠する「御」の字を賜った。ここに茶道細川御流・華道細川未生流が新たに誕生し、大正・昭和と時代と共に歩んできた。
昭和十五年岸弥三郎亡きあと、弥三郎氏の高弟であった小林暉甫氏(茶道暉甫庵・華道廣圓斎暉甫)が八代目を引き継ぎ、さらに小林暉甫氏がご高齢のため、高弟であった中澤寿栄甫氏が昭和三十四年、九代家元(茶道寿庵、華道廣照斎寿栄甫)を襲名された。平成二十三年中澤寿栄甫氏亡き後、令和五年曾孫にあたる岡本友輝甫氏が十代目を襲名するに至った。
当流の茶道細川御流は独自の武家点前として継承され発展し、華道細川未生流は、格調高い生花の細川五行活け、又、当流独特の水引結びをした若松を始めとして、盛花、投入、茶花等あくまで自然の花材、自然の姿、花々の命を大切にする形が受け継がれている。